“ママじゃない私” ポートレート

いつものあなたの、いつもと少しだけ違う顔。いろんなママたちの、「ママじゃない顔」ポートレート。

番外編: その重さは どれくらい?

こんにちは、満員電車では見事に押しつぶされるチビっ子・エミです。

子どもは重たい?

 

あなたがもっとずっと若かったころ。イヤな奴とでも、ヘラヘラ笑って話を合わせる。そんな大人を軽蔑してませんでしたか? 恋人とケンカしてしまった、もう仕事なんて手につかない! そんなこと、ありませんでしたか?

「荷物」といえば私が思い浮かべるのはこの曲なんですが(名曲!!)


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それはさておき。(よろしければ、この記事のテーマとしてバックグラウンドで流しながら、お読みください♪)


かつて、家族を持つって、荷物を背負うことだと思ってました。

まして子どもなんて、重み・重し・漬物石だと。それは素晴らしいものかもしれないがしかし同時に自分の自由を奪うものでもある。独身だからって自由気ままに過ごしていたわけじゃなく働いてました。これ以上、不自由になるなんて!! 立派な漬物になる自信が私にはなかったのです。


先日、みなみしほこさんの取材のとき、撮影ちひろ氏も含めて3人でわあわあ話していた中の、一幕。

しほこ: 「嫌いな先生の授業とか、5分くらいでイヤでたまんなくなかった? なのに1時間聞いてなきゃならないあの苦痛。無言でイライラして…。でも、今、それと同じように、苦手な人と一緒にいなきゃいけないときがあるとして、笑うことすらできるっちゃんね。」

ちひろ: 「失恋したときなんて、泣いて暮らしてたい、仕事なんか行きたくない、って思ってた。でも、今は、夫とケンカしても、娘がいるし、家事もあるし。ちゃんと生活したいっていう気持ちがあるから、ケンカ中も家事や子どもや趣味や・・・そっちに集中して気が紛れたりね」

さて、彼女らは、家族という重荷をもったがゆえに、若き日の一途さ・純粋さを失い、退化してしまったのでしょうか? 

 

◆没頭しすぎない能力の必要性

 

私は、進化じゃないかと思います。「“ママである私”としての現実にしぶしぶ適応している」という意味じゃないよ。進化とは進歩。より優れたものや複雑なものになることです(と、デジタル大辞泉様がおっしゃっています)。


私が勤めていた会社では若手社員にいろいろな勉強をさせる慣行があり、その一環として秘書検定というものを受験したことがあります(女子だけが受験させられるものでした笑)。ヤマを張るために(私は試験のヤマ勘がよく当たるほうだったのです笑笑
問題集をめくっていますと、印象的な問題がありました。

  • 「仕事がたくさんある場合も、ひとつひとつに集中して、最後までやり遂げてから次の仕事に進む」

というような選択肢に「不適当」という回答がついていたのです。新入社員だった私は、へぇ、と少し意外に思いました。「ひとつひとつに集中」とか「最後までやり遂げる」とかいうのは、いかにも清く正しいフレーズに思えたものですから。

解説を見ると、

  • 「状況は刻一刻と変わるものだから、目の前の仕事に没頭しすぎず、常に周囲にも注意を払って、必要とあれば途中で切り上げて別の仕事をしたり、作業の順番を変えるなど、柔軟な態度が必要」

とあります。まぁいかにも日本人的な「空気読め」案件なのかもしれませんが、やがて社会人経験を積むにしたがって、「なるー」とも思うようになりました。

私は経理部員=デスクワーカーでしたが、それでも仕事は自分のペース通りには進まないものです。急ぎの資料を作っていても、電話が鳴ったり、同僚から質問を受けたり会議の準備があったり、部長の様子(ご機嫌含む)を見計らってハンコをもらいに行ったりしなければなりません。自分の業務にしても、自分ひとりで完結しないことは多々あり、協議・交渉すべき他の部署や社外の人間がつかまるまではペンディングになるのもしばしばです。

そういったイロイロを、涼しい顔で(時には押しの一手で)こなしてこそ、いっぱしの社会人として認められるのであり、何か一つのことに拘泥して他を顧みないのは、“あまちゃん”とみなされ、よほど特別に(たとえばジョブズ宮崎駿のように)才能豊かな人でなければ許されません。


仕事の世界ではたいていマルチタスクの機能の搭載が必須で、これは「集中力」とか「やり遂げる力」とかが最重視されていた学生時代…特に「お勉強」の世界とは大きく異なります。今思えば、学校というものがやたらと「文武両道」を掲げたがるのは、全方位的にお利口ちゃんな学生を量産したい思惑もあれ、将来、マルチタスクの世界に出ていくための準備という側面があったのかもしれません。


◆肥えた私を乗せる脚

 

仕事そのものでなく、大人になれば社会生活も同様に多面化していくもので、仕事・家庭・地域活動・趣味・・・などなど、複数の分野に棲息することになります。「家庭」と一言で言っても、ひとりの自分が 夫/妻であり、父/母であり、親を介護する子どもでもあったりと、複数の役割があることも多いでしょう。

めっちゃ大変やん。よほどの向上心・克己心がないと無理やん、家族なんてやっぱり重み・重し・漬物石やん、て感じですが、意外とそうでもないんですよね。これ読んでる「ママじゃない私」諸氏は実感されているんじゃないでしょうか。

自分という1個の人間体が、高坏のようなものに乗っていると仮定しましょう。こんなやつ。

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人間だから結構重いですよね。私も、料理のできる夫がいるせい(おかげ)もあって、年々肥えてます。そんな高坏の上の「私」を支える脚が「1本」なのと、「2本、3本」とあるのと、どっちが安定感あるか?て話で。

イメージは これ と これ ね。あ、私は「絵心ない芸人」(芸人?)なんでヨロシクです。 

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若かりし日は、恋をすれば「恋という脚だけでいい」とか、「この美貌だけで生きていけるわ」みたく、細く美しく張りつめた1本の脚で自分を支えようとしますが、その場合、その恋が何か不穏な雲行きになった途端、あるいはニキビが1個吹き出てきた途端に、自分自身までもがぐらぐらして落っこちそうになってしまいます。

脚が複数あれば、「いま仕事が行き詰まってるけど家族は元気で仲良し」とか、「さすがの私にもシミソバカスが…でも、仕事の能力は若いころの比じゃないわ」とか、「夫とケンカして気分悪いけど子どもに当たらないように趣味にいそしもう…」とかいうふうに切り替えて、いちいち揺らがなくなります。

そういうふうに考えられるのは、曲がりなりにもマルチタスクな大人の世界に揉まれてきたからというのもありますし、「いちいち凹んでいられない」という現実的事情もあります。そこを重点的に捉えると、「大人って、家族って、大変そう」となります。

でも、実際は、そのほうが楽だったりするんですよね。一つの脚が弱ったときに、しゃかりきになってそれを修理したり補強したりするよりも、ひとまず別の脚でバランスを取ってみること、いろんな立脚点に拠って立つことのほうが。誰だっていつでも、できるだけ機嫌よくいたいものです。できるだけ機嫌よくいられるための材料を、たくさん持っていたほうが生きやすいんです。

 

◆幼な子だって 力持ち。だからこそ some legs

 

だから、「子どもがいるのにバリバリ働いているママ」とか「しかも趣味も充実させてるママ」とかを見ると、「うわ~すごいなあ~キラキラしてるなあ~私なんかとは全然…」って私もちょっと思ってしまったりしますが、確かにそういう人はすごくがんばっていて能力も高いのかもしれませんが、実はそれだけじゃなくて、彼女らは「そのほうが楽」だと知っていたりするんじゃないかと思います。

冒頭の引用に続けて、ちひろちゃんが「いろんなことしたほうがいいよね。ひとつじゃなくて」と言ったり、しほちゃんが「“面の皮が厚くなった”ってことかもしれんけど、大事っちゃ、大事やない? 顔に出しちゃいけないんだよ、ってこと」と言ったりしてたのもきっとそういう意味なんでしょう。

何かひとつに集中しすぎるよりいろんなことをやってたほうが精神的に安定しやすいし、嫌いなモノを嫌いと決めつけてキライキライとイライラするより、「笑顔で挨拶ぐらいはしといたほうがいいよね、子ども同士の関係もあるし」と自分で考えて納得したうえで行動するほうが、気持ち良かったりするんです。

大人になるって、特に家族や子どものような「守るべきもの」をもつって、大変なようで、実は楽になることでもあるんじゃないかと思います。確かに自分自身が子どもを支える「高坏の脚」になる面もありますが、決してそれだけではありません。子どもは重石ではなく、それどころか、幼いうちから、大人の自分を支えてくれる力強い存在でもあるのです。

だからこそ、個人的には、「子育てに集中する」ってのは怖いなって思ったりもします。自分を支える脚を子ども1本にしてしまうこと・・・それは子どもによりかかりすぎ、依存しすぎてしまうことのような気がするんです。30数年生きてきて肥え太った(笑)私をひとりで支えさせるには、子どもは、やはり、か弱すぎます(笑)。

(あ、もちろん、こういった価値観は人それぞれだし、ひとりの人の人生の中でも、時期によっていろいろな違いがあると思います。)

・・・などと言い訳して、日々、ヲタク活動etc・・・にいそしんでいるわけですが(笑)。あ、この「ママじゃない私ポートレート」も、今は、私を支える脚の1本です。いろんな方のいろんな価値観、その多様性を楽しみたい企画です。

最後に、自分の気の持ちようで、some legs を持てる自分の現状の幸運はいつも認識しています。先日もベビーシッターによる致死事件がありましたが、仕事も子育ても楽しむどころではなく、もがくしかない状況にあるママと、その子どもがいるのは現実だし、決してひとごとには思えません。

f:id:mamajanaiwatashi:20140524102902j:image:w390(写真 橘ちひろ