番外編: 子ども と 「物語の力」
こんにちは、エミです。最近面白かった本は、朝井リョウの『時をかけるゆとり』です。帯には「圧倒的に無意味な読書体験」というPR文句が書いてありました。
●読書の効用?
私は割と本を読むほうかもしれませんが、「自分の子どもを本好きにしたい」「そのためにいろんな本を読み聞かせよう、与えよう」とは、それほど強く思っていないんです。何事も、「さあ好きになれ、ホイホイ」ってやって、好きになるもんじゃないと思うし。
何より、私自身、本は読めども、人間的にも母親的にも未熟な、しがない専業主婦なので、「本を読むと立派な人間になれる・・・なんてことはない☆ 」と地で証明してるんですよね(笑)。我が家でも、本を読む私よりほとんど読まない夫のほうが、よっぽど人間できているように思います(笑)。
でも、子どもってたいてい、絵本を読んでもらうの、好きですよね。子どもは「よんで」と持ってきますし、読んであげると、絵本の世界に入っているのがわかります。その様子を見ていると、成長するために食物を摂取し、体を動かして遊ぶように、子どもは、絵本つまり物語も、必要なものだと本能的に知っているのかなと思ったりもします。
だとしたら、絵本の力、物語の力ってなんだろう? ・・・と、時々、考えるともなく考えることがあるのです。
子育て関係の記事などを見ると、読書の効用として、
などと書いてありますが、「語彙を豊かにするために」「知識を増やし想像力を育むために」etc・・・・のために物語を読ませるというのは、正しいんでしょうが、どうもピンときません。なんだか、ゲームの中の畑で作物を実らせるために水やりをする、みたいな即物的なものがあるというか・・・。
●物語の主人公のように (月9『デート』めっちゃおすすめです!)
で、ドラマの話になるんですけど(笑)。みなさん、今(2015年1~3月期)の月9ドラマ『デート』見てますか?
これ、めっちゃ面白いんです!! 私、このドラマのおかげで憂鬱なはずの月曜日が楽しみです!! 「今日はデートだから」「デートのためにがんばろう!」「デートの前にお風呂済ませなきゃ」と、字面だけだと、まるで不倫妻みたいになってます。お腹がよじれるくらいに笑えて、そして泣けるドラマなんですよぉぉぉ。
やばい、ドラマのこと語り始めると止まらない。。。。(笑)
えーっと、このドラマで長谷川博己が演じる谷口巧という35才男性は、健康体でありながら、大学を卒業してから一度も働かず、家からもほとんど出ることなく、母親のわずかな収入で扶養してもらって、読書や映画鑑賞などを通じて教養を磨いている・・・いわゆる「引きこもり」の「ニート」なんですね。本人は、大いばりで「高等遊民だ!」と主張しているのですが。
そんな彼が、老いを間近にした母親の体調不良をきっかけに、「新たな寄生先」を探すため結婚相談所に登録して、ヒロイン藪下依子(杏)と出会い、すったもんだを繰り広げているわけです。
3話でしたか、酔いつぶれた依子が、怪しい男にホテルの部屋に連れ込まれてしまう事件が起きます。見かけた巧は始めはスルーしようとしたものの、結局は小走りに引き返して乗り込み、卓上のまむしドリンク2本を見て(コメディです(笑))「彼女に何をしようとしたんだー! (`Д´) 」 と殴りかかる。しかしそこは引きこもり、もちろん戦闘能力なんてたかが知れているので、相手にしたたかに殴り返されてしまいます。
酔いから醒めた依子が「なぜ私を助けたんですか」と聞くと、巧は、しょんぼりとうつむきながら小さな声でこう答えるのです。
「映画や小説の主人公は、たいていそうするから、かな」
ここね、ハセヒロすっごくかわいくて、いたいけで。これだー!と思いましたね。子どもにとっての、「物語の力」。
社会に出ず、人とかかわらず暮らしてきた巧は、ある意味、子どものままなんですよね。大人になりきれていない。その彼が勇気をもって踏み出したのは、「物語の主人公みたいに振る舞いたかったから」。とってもシンプルで、すてきな行動原理ですよね。子どもみたいに。
「こんなふうに なりたい / なりたくない」。「かっこいい / かっこわるい」。子どもは、物語の中から、そういった感覚を養っていくんだろうなーと思います。
ほかにも、「すごい!」とか「だめだなー」、「情けないな」「悲しい」「かわいそう」「怖い」「不思議」・・・。物語から得た心の動きの積み重ねが、あるときふと何かの行動につながったり、「その子らしさ」を形づくったりするのでしょう。
(ドラマ、面白いですよ~!)
●自分の心と対話する
ここで大事なのは、物語が、双方向のコミュニケ―ション“ではない”ことじゃないかなと思ったりします。
家族、友だち、先生・・・言うまでもなく、人とのコミュニケーションは大事です。けれど、コミュニケーションって、大人にとっても時に難しく、しんどいですよね。まして発達途上の子ども同士ならば、お互いに語彙も表現力も未熟だし、機嫌の良い悪いもあるしで、発言や態度にブレがあったり、傷つけたり傷つけられたりすることはしょっちゅうだと思います。
もちろん子どもは意外に頑丈で、未熟なコミュニケーションの中からも学んでいくのでしょうが、物語の優しさは、時に子どもにとって大事な役割を果たす気がします。
本はいつも黙ってそこにある。いつ開いても、同じ言葉を投げかけ、同じ物語を紡いでゆく。繰り返し読めば、繰り返し、自分の心の動きを確認できます。本は変わりません。もし感じ方が変わったならば、それは「自分が変わった」から。
つまり、本を読む、物語を味わうということは、「自分の心との対話」なのだと思います。それは、日々の生活で、さまざまなコミュニケーションの波の中を泳いでいるからこそ、大事になってくるのではないでしょうか。
物語の中で、子どもは自由です。相手の反応を気にすることなく、安心して、好きなように感じ、考えることができる。
就職試験など「コミュニケーション能力」が重視される時代なので、小さい子に対しても「他者とのかかわり」や「集団行動での振る舞い方」などに目が行きがちだけれども、なにしろ、自分の心は自分だけのもの。とても大事なものです。子ども時代には特に、じっくりと自分の心と向き合い、育てていってほしいですよね。
そんな、自分なりの感じ方・考え方がいつしか心にたまっていけば・・・そう、35歳男性の引きこもりニート高等遊民にすら、明らかに自分より強い相手に向かっていく、なけなしの勇気を与えることもあるのでしょう(笑)。
●いくつもの物語と現実とを往復して磨かれるもの
まっさらな子どもの心は、良い影響だけでなく、悪い影響も受けやすいのではないかと、よく心配されます。本は心の糧になるだけでなく、毒になる場合もあるのではないかと。
学校や地域の図書館で「はだしのゲン」が閉架扱いになった話題も記憶に新しいですね。私も子どもの頃、親の「そんな本を読むのは早すぎるんじゃない?」とか、「あんまり本ばっかり読んで、現実との区別がつかなくなると困るよ!」などのツッコミをかわしながら、読みたい本を入手していたものです。てか、コソコソ読むと、かえって面白いんだよなー(笑)。
これについては、ひどく心に残っている話があります。
村上春樹が、『アンダーグラウンド』というノンフィクションで地下鉄サリン事件について書くにあたって、オウム真理教に帰依した人々にインタビューをしました。そのとき、彼ら(信者/元信者)に
「子どもの頃に熱心に物語を読んだことがない」
という共通点を見つけたというのです。彼らのほとんどは小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった、と。
いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実とのあいだに引かれている一線を、自然に見つけ出すことができる。
そのうえで、「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。
しかしオウム真理教に惹かれた人々は、その大事な一線をうまくあぶりだすことができなかったようだ。
彼らが、教祖の差し出した世界観・・・一見、神秘的で奇跡的な宗教的ストーリーに吸引され、受け容れたのは、「物語」に対する耐性がなかったからではないかという、いかにも小説家らしい仮説です。もちろん、そこだけに原因を見ることはできないにしても、私には衝撃的な話でした。
子ども時代にさまざまな物語に親しみ、夢中になるのを通じて、人は「良い物語」「悪い物語」の峻別をできる力が身につくということ。
優れた物語の、いわば「ホワイト・マジック」によって、癒されたり、救われたりしたあと、やがて本のページを閉じて、現実に戻ってくる経験が大事だということ。
オウムのような宗教が提示するのは、現実世界を生きる助けになるのではなく、むしろ「現実に戻らせない」片道切符の危険な物語であるということ。物語に親しんだ経験のない人には、その危険性を見抜くのが難しいのだろうという仮説。
そういう視点もあったのか、と考えさせられます。「読み終わって、現実に戻ってくるまでが大事な読書経験です」といえば、まるで「家に帰るまでが遠足です」みたいですけどね。
●心の奥深くを巡る、清らかな…
そういえば、ドラマ「デート」での先述のシーン、「小説や映画ではたいていそうするから」と言ったあとに、巧はボコボコにされた顔を歪めながら「まあ、あまり、こういう結果にはならないけど」と言うのでした・・・。
物語のヒーローみたいにかっこよく振る舞いたい、というのは、まさに「物語の良き効用」ですが、それを実践した結果、「だけど現実はそんなにかっこよくいかないこともある」ってのを身をもって知るのは、もっと大事なことかもしれませんね。物語と現実とをつなぐ、ほろ苦い架け橋は、「じゃあ、かっこよくなるためにはどうしたら?」という、次の一歩へ向かうためのステップになるのだろうと思います。
もちろん、「本をしっかり読んでおけば安心」なんてことはありません。以前、絵本の読み聞かせに関する講演を聞いたとき、長年読み聞かせの活動をされてきた女性は、「子どものころからたくさんの本と触れ合っていたけれど、娘は引きこもっていた時代がありました」と言っていました。でも、何年も経って外に出られたのは、子どもの頃に蓄えた本の力があったのかもしれない、と。
「子どもの頃の読み聞かせは、砂漠に垂らす水のようなもの」という、児童文学者の松居友さん *1 の文章を引いておられました。それは、一瞬で吸い込まれて見えなくなってしまう。けれどその水は、心の奥深くを源流として巡り、いつか、清らかな湧き水となって表れることがあります、と。
とりとめもなく長い文章になってしまいました。最後まで読んでくれた方がいたら、ありがとうございます。どうか多くの子どもたちが、物語の力を受け取れますように。
(撮影 橘ちひろ)